怪物と人間と、半妖の話(もしくは、映画「ジョーカー」感想の前編)

わしと連れの間でのみ通じる単語で、「怪物と人間」というものがある。

ここで言う怪物とは、簡単に言えば社会に馴染めない存在の総称だ。

その病名はなんでもあり得る。ADHDかもしれないしアスペルガーかもしれないし、自閉症スペクトラムかもしれないが、病名は重要ではない。そして病名が重要ではないのと同じぐらい、「病名が付いている」事それ自体も重要ではない。怪物を怪物たらしめる唯一絶対の基準は、つまりは「社会に対して違和感がある」為に、「そのままの自分では生きづらい」という意識がある事である。

ADHDなんかは特に、言われる様になって久しいが、人間というものは少なからず「何か」を抱えていると言われる。かくいうわしも、校内カウンセラーに「ADHDの傾向があるかもしれない」と言われた事がある。これは余りにも個人的で長い話になるので端折るが、その時私は、社会というものにとてつもない違和感を抱え、そんな場所にどうやって存在していいか方法が分からず、まあ結構病んでいた。

しかし、病名は付かない。傾向があるかもしれない。それで終わりだ。めちゃめちゃ曖昧だなあ。

 

そう、人間ってそれぐらい曖昧なものなのだ。

物事にはグラデーションというものがある。例えば「健常」を100として、99の人間は異常だろうか。じゃあ80の人間は?50は?30は?10?1だとどうだろう?

多分、20ぐらいだと病名が付くんじゃないだろうか。と思いつつ、それすらも状況=社会によるだろう。

今では人よりちょっと主張が強い程度の99の存在は、・女性・中世・ヨーロッパという三要素が揃えば魔女狩りで処刑されただろうし、1の存在ですら、環境とか本人の持って生まれた能力(めちゃめちゃ数字に強くて、ついでに生まれた社会がそういう人間を評価してくれる社会で、なおかつ教育の機会に恵まれて人にも恵まれるとか)によって単なる「物凄い人」で評価されると思われる。

誰でも少しは怪物なんだと思う。けれど、怪物にも程度と種類があって、更にその龍を社会がどう扱うかによって、怪物が抱える生き辛さは違ってくる。

 

じゃあ、生き辛さって何なんだろうか。

それを、わしらは「人間の模倣」と呼んでいる。

怪物が、本来は人間じゃないものが、社会が求める人間という一要素になる為に、本来の自分ではない「人間という存在」を模倣するに伴う努力や面倒さ、苦労を、総じて生き辛さと呼んでいる。

 

人は誰しもある程度は怪物だ。けれど、その反面、絶対的な純度100%の人間っていうものも存在する。もしくは、そういう概念だ。

「人間」の正体は、恐らく、社会に属する人の中央値だ。

 

人間は社会的生物で、社会を構成する事を生存戦略に選んでいる。そして社会という共有される場がある以上、ルールやシステムは存在していて、それらは必ず何かに準拠して作られている。じゃあその基準は何だって言うと、まあ単純に、より多くの個体に適応し得るっていう所が妥当だと思う。

 

絶対的な正義が存在しないと皆分かっている反面、「皆」が共有する道徳や価値観が存在するのは面白い。

人殺しが万国共通、未開の部落ですら駄目な理由って、詰まる所共同体を維持する為に困るからだと思っているんですよね。

勿論単純に、人を殺す=構成員がひとり減るっていう事で共同体的にマイナスだし、更に殺人が野放しだと、いつ自分が殺されてもおかしくないって事になっちゃうから、信頼関係も築きにくくなるし、これは社会的生物としてかなり致命的なダメージを負ってしまう。だから、「社会の常識」として殺人はだめって事になる。

道徳とか良心っていうのは、こういう「共同体を維持する為に必要なルール」の集合体で(国や集落とか、社会それ自体が違うと環境に応じてマイナーチェンジがある)、人間は社会的生物という生き物なので、それがある程度生まれた時点でインストールされてるんだと思う。

 

で、怪物っていうのは、一部の要素のインストールが弱い。若しくはない。それか、これはつまり後天性精神障害ってやつだけど、潰されたか、発露しない環境に置かれている。

例えば、良心の内訳は、・共感能力・社会性・正義感のみっつ(多分名称が悪いんだが、上手い事思い浮かばない)の三要素で構成されていると考える。

つまり、他人が殴られている⇨痛いだろうと分かる(共感能力)⇨人が痛がっているのは止めるべき(社会性)⇨自己保身より助ける気持ちが勝る(正義感)=殴られている人を助ける

という図式になる。

これの内、どこかが欠けていたり弱かったりすると、・そもそも殴られている人が痛がって(嫌がって)いる事が分からない・他人の痛みは自分とは関係ないので介入する必要はない・自己保身が勝るので、止めに入るべきとは分かっているが、介入しない、とかになる。

怪物の種類っていうのはここの要素の事を指す。

アスペルガーの人だと、他人の気持ちが分からずに失礼な事を言うとかっていう症状が割と知られているが、つまりこの例でいう共感能力の欠如である。

 

社会は人間の中央値を基準に作られていて、その地点を0とすると、+2とか、-4とかだったら、まあそんなに努力しなくても0に合わせられる。だから、気付かない事が多い。

んでも、反対に、+-95とかの人間が0に合わせるのは、物凄くしんどいだろう。

そしてここまで来ると、+-1桁の人間は、+-90台の人間の事が、全く違う生物に見えてくる。見た目が人間なだけの、「全く違う」考えを持った生き物、めちゃくちゃ怖いと思うよ、上の例で言えば、殴られてる人間の事を黙ってみてる人間を見ちゃった時の恐ろしさ。

だから、彼ら彼女らは怪物である。

そして、人間は怪物が恐ろしいから、排斥しようとする。

 

でも怪物も、そう「在る」だけなので、何も悪気がないし、(そもそもそういう悪気とかを共有出来る文脈が形成できるかも怪しい)排斥されるのは恐ろしいので、必死で生き残ろうとする。なぜなら人間だから、なぜなら生き物だから。

排斥されたくなくて、何故排斥されるのか分からなくて、必死で周りを見る。

周りの「排斥されていない存在」が「人間」である事を知る。

 

生き残りをかけた生存戦略は、おおまかにふたつだ。

ひとつは「模倣」

もうひとつは「見世物化」

 

怪物を自覚したら、人間の所作をまねる。ひたすらにまねる。笑うべき所で笑い、同じ話題や語彙を共有し、一員になる。人間のふりをする。

けれど、怪物はやっぱり怪物でしかないので、たまに「怪物」が出る。出てしまった怪物は、「見世物」として処理する。つまり、自分の「怪物」を「人間が好む形」に加工し、「人間」が受け入れられる形にする。

周りに居ないだろうか。ちょっと変わってて面白いコ、人と違う独特な感性が魅力的な人、話してる所は見た事無いし会話はしたくないけど、何かの才能が素晴らしくて存在を「認められてる」人。

まあいっちゃああれだけど、芸能人とか、アイドルとかは典型的だ。(特にアイドルは、自己愛性人格障害が唯一向いている職業だそうで)

人と変わっている事は財産だ。素晴らしい事だ。

それが、その人が属する社会に評価される種類と、程度であれば。

 

そう、怪物には+と-がある。

この上下の評価は、社会と、そして社会の構成要素である人毎に変わるだろう。

程度は普遍的でも、要素によっては合う合わないも出てくる。

過集中はその努力によって天才にもなれるし、周りに気を配れない故に社会的つながりを全て失って孤独に死ぬ事もある。

 

私たちは皆怪物かもしれないが、その多くは半妖でもある。

怪物を飼いながら、周りを見渡し、そうある「べき」人間的行動を見極め、その様に怪物を誘導する、手綱を持つ「人間」でもあるのだ。

人によっては、その「手綱を握る人間」を獲得する為に、物凄い苦労や努力を必要とする場合がある(もしくは、医療的ケアすらも)。

程度が著しいとか、要素が破滅的に反社会的であるとか、人間を獲得する過程を過ごす環境が凄く悪いとか、そういう個別の不幸はあるかもしれないけれど、どんな怪物も半妖になるチャンスがあると信じている。

 

 

 

そして、その不幸が全部重なった結果が映画「ジョーカー」のアーサーだと思うっていう話がしたかったんだけど長すぎるので次だな。