「憧れの人」

昔から、ハードボイルドとか、少年漫画的アウトローとかが好きだった。

全てに恵まれている様で、余裕で、強くて、かっこよくて、なのに何かに満たされない影があって、だからこそ見える世の中の本質を突くような、そういうキャラクターに憧れていた。

なりたかったんだよなあ、そういう人間に。格好良い強者なのに、あえて斜に構えて冷笑的に社会の偽善を斬る様な、そういう人になりたかった。

 

最近、結局彼らは、男性だったんだなあと思う様になった。

悲しい過去を背負い世の中の偽善を目の当たりにしてすら、余裕を保ち優雅に振る舞えたのは、その足元に女性という絶対的弱者が居たからなのだと分かった。

 

男尊女卑という社会で、男性でいるという事自体が特権である社会で、彼らは男性であったのだ。

絶対に揺らがない立場を持ちながら、苦しみも悲しみも理解するという人間は、凄く魅力的だ。生まれながらの王族に生まれて、なのに平民の事も理解したいと野に下りる王様は、凄く良い人に思える。

平民を理解している平民よりも、よっぽどすごい人に見える。

でも、王様は無邪気に王政が存続し続ける事を信じているだろう。平民が平民として、平等な権利を求めた時、それは王様の目には、単なる野蛮な反乱としてしか映らない。

結局、自分の王族としての立場を無くして平民を平等に扱おうという気も、発想も無いのだ。

王族にとって平民は、平民でいる限り、王様に服従する限り、人間でいるだけだ。

王族に服従するのをやめただけで、階級なんて関係なく同じ人間であると主張しただけで、その人はもう「人間」では無くなってしまうんだろう。

 

今でも、昔の私が憧れた人の事を好きでいる。

アウトローもハードボイルドも、そういう類だと感じて憧れた実在の人達も、ああ恰好良かったなあと思い出す。

その人達の苦しみも悲しみも、それを乗り越えて来た強さも、今でも憧れ続ける対象だ。人間社会で揉まれ、苦しみ、それでも掴んだ強さは、とても美しく映る。

 

ただ、その人達の目に、私は人間として映らないのだなあと、寂しい思いがするだけ。